「B層」と「サナ活」の時代に、私たちは何を失っているのか
――ウォルター・リップマンと適菜収から読む、いまの政治
久しぶりに図書館へ行き、昔読んだ本を借り直した。
適菜収の『B層の研究』である。
二日で読み終えたが、改めて感じたのは、
この本が過去の政治状況を論じたものではなく、
むしろ現在を説明してしまっているという事実だった。
今回私がこの本を読み直した理由ははっきりしている。
選挙における高市氏の大勝、
そして「サナ活」という、
どこか宗教的で、広告的で、
意味が曖昧なまま流通する言葉への強烈な違和感である。
このふわっとした熱狂はどこから来るのか。
それを考えるために、私はもう一度、
適菜の議論と、彼が参照する思想へ立ち返りたくなった。
「B層」という冷たい現実
適菜収が提示した「B層」という概念は、
しばしば誤解される。
それは単なる悪口ではない。
むしろ、
現代民主主義の構造そのものを示す言葉に近い。
政治的判断が、
- 論理
- 歴史理解
- 制度知識
ではなく、
- イメージ
- 雰囲気
- キャッチコピー
によって左右される層の存在。
重要なのは、
これは特定の人々の問題ではないという点だ。
現代社会そのものが、人をB層化させる。
忙しさ、情報過多、生活不安。
深く考える余裕を奪う条件は、
あまりにも整いすぎている。
リップマンが見抜いていたもの
ここで思い出されるのが、
マッカーシズムを批判したジャーナリスト、
ウォルター・リップマンである。
彼は、公共問題に対する意見が、
理性的な市民だけによって形成されるわけではないと指摘した。
選挙と宣伝の世界では、
数そのものが力になる。
だからこそ、
- 注意力は低下し
- 議論は単純化され
- 現実はスローガンへ圧縮される
大衆への訴えは、
問題を実体験として理解していない人々の間を駆け巡る。
これは大衆への侮辱ではない。
民主主義の構造的限界の記述である。
「サナ活」という現象
今回の選挙で象徴的だったのは、
政策論争よりも、
感情的な参加様式が前面に出たことだ。
「サナ活」という言葉は、
政治活動というより、
ファン活動、
あるいは信仰に近い響きを持つ。
ここに現れているのは、
政治の娯楽化であり、
共同体的熱狂であり、
そして何より――
思考の省略である。
複雑な現実は重い。
単純な物語は軽い。
軽いものほど拡散する。
その結果、
政治は広告に近づき、
市民は観客に近づく。
マッカーシズムは終わっていない
赤狩りは過去の出来事として語られる。
しかし本質は、
特定の思想を排除する空気の形成にある。
現代日本に露骨な弾圧はない。
だが、
- 同調圧力
- レッテル貼り
- 空気による排除
は確実に存在する。
もし疑問を持つこと自体が
「ノリが悪い」とされるなら、
それは静かなマッカーシズムと言えるだろう。
大衆は愚かなのか
そうではない。
問題は知性ではなく、
条件である。
人は生活に追われ、
情報に疲れ、
判断を簡略化せざるを得ない。
だから物語に流れる。
これは誰にでも起こる。
つまりB層とは、
他者ではなく、
私たち自身の可能性でもある。
それでも考える少数の意味
歴史を動かしたのは、
常に多数派ではない。
最初は理解されず、
嘲笑され、
孤立した少数だった。
それでも考え続けた人々が、
後に常識を作り替えた。
重要なのは勝利ではない。
思考を手放さないことだ。
曖昧な言葉に抗う
いま必要なのは、
大声ではない。
遅い思考である。
曖昧な言葉に具体的な問いを返し、
熱狂に時間差で向き合う。
それだけで、
社会の温度は少し下がる。
終わりに
図書館で読み返した一冊は、
過去ではなく現在を照らしていた。
B層の時代。
サナ活の政治。
数が支配する民主主義。
それでも、
考えることだけはやめない。
少数でもいい。
遅くてもいい。
民主主義は、
その営みの上にしか存在しないのだから。

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